演奏のピークと年齢
どんな能力にも、ピークの年齢というものが存在する。ある研究によると、例えば、情報処理能力や記憶力は18歳前後だという。一方集中力のピークは40代前半にあるらしい。個人差はあるが、身体能力は、どう考えても10代後半かせいぜい20代前半のはずだ。
同様に楽器演奏能力にも、ピークの年齢が存在するように思う。これはやはり、運動能力と連動するし、記憶力も情報処理能力も必要だからだ。特に、指を細かく動かす系の楽器、ヴァイオリンやピアノなどは、テクニカルな部分に限って言えば、かなりピークが早いような気がする。つまり10代後半くらいが平均ではないかということだ。一方、管楽器はもう少しピークが遅いように感じるが、これは始める年齢が、指動かし系の楽器に比べ、少し遅いということも関係するのかもしれない。
いずれにせよ、演奏家は割と早い年齢でピークを迎える。スポーツ選手と同じようなものだ。だからこそ、幼少期から練習を始め、就学期間を通して没頭する必要があるのだ。20代に入ってから始めても、プロになることが不可能なのは、スポーツの世界と同様である。個人で楽しめるレベルには十分到達するが、膨大なレパートリーを持ち、自在に操ることが出来るようになるには、16歳頃までが勝負ではないかという気がする。
演奏はテクニックだけではないので、熟練による深みや表現力が増して、全体の成熟度はもっと後だと思うが、それでもせいぜい30代頃ではないだろうか。なぜなら表現するにもテクニックが必要だからだ。ppからffまで自在に表現するには筋力も体力も要求されるし、速いテンポには瞬発力も必要だ。強弱やテンポの幅を広げられるのは、テクニックがないと出来ない。同じ奏者の演奏でも、やはり若い頃の方がミスが少ないように思う。
更に忙しく世界中を飛び回る演奏家であれば、時差移動に耐え、すぐさま演奏出来る体勢に持って行ける体力と体調コントロールが必要だ。これは若い方が圧倒的に有利な部分だ。
逆に年齢を重ねて有利になると思われるのは、何度も同じ作品を演奏することでレパートリーに磨きがかかり、コントロールが容易になることではないか。例え幅広い表現力と素晴らしいテクニックがあったとしても、それらを的確にコントロールしないと印象的な音楽にはならない。個人的に感じるのは、年齢と共に、特にppを絶妙に使うようになる、ということだ。本来は記譜上にないところで、効果的に使っている。
では実際、ソリストはどのくらいの演奏家寿命なのだろう。オーケストラに入れば定年まで安泰だが、ソリストの多くは同じ年齢まで、同じ形態で演奏し続けるということはない。例えばピアノの場合、若い頃は協奏曲のソリストをやり、途中から室内楽の方がメインになる、というピアニストは多い。コンチェルトを弾くということは、それだけ膨大なエネルギーを要求されるということだ。そしてある程度の年齢に達すると、新たに暗譜することが難しくなるのは、よく知られている。(若い頃暗譜したものは忘れない)
スポーツ選手ほど顕著ではないが、ピークの演奏で活躍出来る年代は限られている。どれほど優れた演奏家であっても、20代のときと同様の演奏が出来る50代はいない。演奏形態やレパートリーを変えたり、演奏活動を縮小して、うまく適応していく。中には指揮者になる人もいるし、後進の指導にあたる人もいる。
若い演奏家は次々とデビューするが、60代で注目が集まる演奏家は本当に少ない。だからこそ、そのような人が現れたときに皆が聴きたがったりするのだろう。それはテクニックで圧倒されるような演奏を聴きたいというよりも、その人の人生を投影する音を聴きたいということなのではないか。しかしこういった演奏家は稀有だと思う。
引退したスポーツ選手は、コーチや監督、解説者など、経験を活かした次の仕事へ進む人もいるが、実際は全く別の職業へ就く人の方が多いのではないかと想像する。全員を吸収出来るほどのポストはないだろうし、違う道を望む人もいると思う。演奏家は生涯現役というイメージがあるかもしれないが、それは本当に限られた人だけが可能なことだ。だからプランBを常に考えておいた方がよいと思うのである。
ある日怪我や病気で、日常に支障はなくとも楽器演奏は続行不能、という健康状態になるかもしれない。コロナパンデミックのような非常事態が起これば、生活に不可欠とは言えない音楽活動は締め出される。そして誰もが同様に歳を取り、演奏は若い方が有利に出来ている。テクニックは冴え、音は張りがあり、おそらく見栄えも良い。また、一般企業と同様、若い人に活躍の道を譲らないと、昔の栄光にしがみついた、扱いにくい年寄りになる。
演奏家のピークはかなり早く、そしてその後の人生は長い。デビュー時は注目されたが、いつの間にか名前を聞かなくなってしまう演奏家も多い。演奏で生計を立てるため、幼少期から多くの時間を楽器と共に過ごし、多分犠牲にした生活もあっただろう。演奏家を目指すということは、つぎ込む時間が膨大なので、潰しが効かないような気がする。そこにかける覚悟は並大抵ではない。ピークまでにデビュー出来なければ、おそらくそれで食べて行くことは難しいだろう。
人生には様々なピークが訪れるが、ひとつのピークの後に別のピークが来るような気がする。研究によると、実際60代以降で最高となる能力もあるという。そう考えると、ピークを越えてしまった能力に執着するよりも、また違った能力を大事に育てていきたいと思えてくる。もはや20歳の頃のような暗算能力はないが、語彙力は数倍だ。いわゆるソフトスキルは、割と生涯を通じて向上していくように思う。きっと人生の面白さは、衰えていく能力をユーモアを持って嘆き、それを別の能力で気楽に補っていくことにあるのだろう。