弾けていた曲が急に弾けなくなるのはなぜか
今回は、それまでスムーズに弾けていた曲が、ある箇所で突如何かが狂い、急に弾けなくなり、もはやどうやって弾いていたのかわからなくなってしまう、という現象を分析する。これはどんな年代でも、個人練習中だろうが、レッスン中だろうが、本番だろうが、お構いなしに、いきなり訪れる厄介な瞬間だ。これまで最も多く相談を受けた悩みでもある。
この現象に対して、よく言われるような、部分練習や片手ずつの練習が足りないからだとか、両手で通して弾いてばかりいるのが原因だとかいうことを指摘したいのではない。これはどれほど精密に丁寧に練習したとしても、起こるときは起こる現象なのである。だから、どういう仕組みでこの現象が起こるかを知っておく方が、対処がしやすいと思う。
原因を一言で言うと、無意識と意識が衝突するからだ。それまで無意識に保たれていた運動の協調に、ふとしたことがきっかけで意識が介入すると、バランスが崩れるのである。つまり、自動運転が働いている最中に、手動運転が割り込むようなイメージだ。システム同士が衝突するのである。
こうして司令が競合することで、思い出そうとすればするほど弾けなくなる。なぜなら、無意識の技能は言葉として保存されている訳ではないからだ。運動として保存されている。どの部分を弾いていたのか、次は何の音だったか、運指はどうだったか、言葉で具体的に考えるほど、本来の保存形式から遠ざかることになる。
そもそも脳は、熟練した動作をひとつひとつ制御している訳ではない。これは歩行でも水泳でも同じだ。ピアノで言うと、この指を下ろして次は親指で今度は手首を少し回転させ空間を作り…などという命令を1秒に何十回も出している訳ではない。そんなことをしていたら、速いパッセージは全く弾けなくなってしまう。習得する過程で、一連の動きをひとまとまりの運動プログラムとして保存している。
スポーツが良い例だと思う。フォーム全体が一連のひとつのまとまりとして実行される。動作を分割したり、筋肉をひとつひとつ意識して動かしたりしている訳ではない。自然に身体が流れていく。これは自動化と呼ばれる。
練習を重ねると、自動化された動きは非常に高速で正確になる。ここで興味深いのは、自動化された運動技能ほど、本人はどうやっているかを言葉で説明出来なくなるということだ。例えば、自転車に乗る人に、右足と左足はどの角度で保っているのか?とか、歩く人に、足を出すタイミングで最初に動かす筋肉は?などと訊いても普通説明出来ないだろう。動作として出来ることと、具体的に言葉で説明出来ることは別物なのだ。これは手続き記憶の特徴でもある。
では、自動化された技能に意識が介入するとき、何が起きているのか。なぜ、昨日までスムーズに支障なく弾けていた曲が、急に止まってしまうのか。突如何かが狂ってしまうときとは、例えば、こういったことが僅かに意識化された瞬間だ。「ここは難所だから失敗しないように」とか、「次の跳躍は外しやすいから気をつけよう」とか、「ここの運指は変更したけれど大丈夫かな」などなど。
このとき脳では、普段は自動で動いていた運動に、途中から意識が介入し始める。自動運転を手動運転に修正しようとするのだ。しかしこれは、自動化を一時停止し、代わりに意識が動作を引き受けるという入れ替わりにはならない。多くの場合、自動化された運動もそのまま続く。そこへ意識が入り込み、「小指はもっと右だ」とか「手首の回転を速く」とか「タイミング揃えて」とか、細かい命令を送り始める。つまり、二つの制御システムが、同じ動作を同時に操作しようとする。
その結果、互いが干渉し合い、タイミングがずれたり、リズムが崩れたり、突如運指がわからなくなったり、指が遅れたり、時には動きが完全停止してしまったりする。
この現象は、スポーツ心理学では長年研究されている。例えば、明示的モニタリングという概念がある。これは、本来自動で行われる技能を、意識的に監視し始めることを指す。無意識化ではスムーズだった動きが、意識の指図により、うまくいかなくなる。再投資理論という概念もある。一度自動化された技能に、意識が再び介入してしまうことが、本番での失敗やぎこちない動作に繋がると説明されている。
では思い出そうとすると、余計に弾けなくなるのはなぜなのか。自動化された運動技能は、運動そのものとして保存されている。つまり身体は覚えていても、言葉によって保存されている情報ではない。そのため言葉で取り出そうとすると、本来とは違うシステムを使って、検索をかけることになる。だから思い出そうと頑張るほど、自動化された運動プログラムを、かえって邪魔してしまうことになりかねない。
こうして本来の滑らかな動きが一時的に乱れる。これが、今まで弾けていたものが突如弾けなくなるという現象の分析である。ピアノ特有の現象ではなく、あらゆる熟練動作に共通して見られる、脳の性質なのだ。決して、練習不足や練習のやり方が適切でなかった、という原因だけではないのだ。これは運動学習そのものの特徴とも言える。
では意識は悪者なのか。演奏中は何も考えずにいることが最良なのだろうか。否、意識は必要だ。もし完全に無意識であったら、テンポや表現を加減したり、その場のピアノや響きに合わせて微調整したりすることは出来ない。高度な演奏ほど、意識と無意識は両方働いている。問題は、意識が運動のどの階層に介入するかだ。
脳は運動をひとつのレベルで制御している訳ではない。演奏においては、上位レベルには、フレーズの流れ、響きの変化、テンポ、呼吸などがある。下位には、指をどの方向にどのくらい動かすか、どの筋肉を使うか、手首はどう傾けるかといった、細かい具体的動きが該当する。熟練者ほど、意識が上位を担当し、下位は自動化される。
スポーツ科学では、運動中の注意の向け方に関して多くの研究がなされている。その中で内的焦点と外的焦点という分け方が、演奏にも応用出来そうで興味深い。内的焦点は身体そのものに向けられる注意だ。ピアノで言えば、指をこのくらい伸ばそうとか、手首を若干傾けようとか、肘を上げようとかいう動作だ。一方、外的焦点は、結果や環境に注意を向ける。フレーズが今どう流れているか、響きはどう変わっているか、呼吸が感じられる演奏になっているか。
スポーツでは、外的焦点にフォーカスする方が、運動効率や学習効率が高くなることが、多くの研究で示されている。つまり既に自動化された運動をする際、身体を直接操作しようとするより、環境や結果に注意を向けた方が上手く自動化を利用出来るのだ。
しかし、当然のことながら、初級者と熟練者は違う。身体の具体的使い方を学ぶ段階では、一時的に内的焦点が必要な場面もある。繰り返すにつれ、それが自動化されていく。つまり、初級者は意識を通して学び、熟練したら無意識に委ねるという流れがある。
このように考えると、熟練とは、全てを意識して制御出来る状態とは少し違う。むしろ、練習によって自動化された仕組みを信頼し、必要なときだけ、適切な方向へ注意を向けられる状態と言えそうだ。演奏中に意識が果たす役割は、身体を徹底的に操作するというより、音楽全体の方向性を捉えていくということだ。
だからもし、本番などで出来るだけスムーズな演奏をしたいと願うなら、ひとつひとつの動作より、全体の流れにフォーカスした方が、この意識と無意識の衝突によるパニックを避けることが出来る。鳴っている音に集中して、これから向かう方向へ、頭の中にある理想の流れに、実際の音を同期させていく。
そして現実的に大事なことは、ミスをしたらどうしようという不安の中で演奏するのではなく、ミスをした場合どう復帰させるかが定まっていることだ。練習やレッスンでは、より完全に美しく弾くことを目指すと思うが、本番では逆説的にミスを前提に設計した方が、大きなミスを減らすことが出来る。ミスの対応法が確立していると、ひとつの些細なミスや突然の不安から一気に意識が流れ込み、演奏が破綻してしまうという連鎖を、制御することが出来るからだ。
本番前提であるなら、演奏にもバックアップがあった方が良いのだ。それは最善を表現することと矛盾しない。徹底的に磨き上げたとしても、楽器演奏は、非常に緻密な時間を刻む、繊細で危ういバランスの上に成り立っている。ほんの少しのきっかけで、崩壊してしまうことがある。集中を阻害する要素がどこかから降りかかったとき、或いは意識が急に無意識の流れを脅かすようなとき、バックアップは必ず役に立つ。
無意識が崩れた場合のバックアップであるから、こちらは意識的に作っておく必要がある。例えば、元に戻せる部分の手順を決めておく、和声進行や転調を理屈で記憶する、曲の構造を隅々まで把握しておく、致命的なことが生じた場合の優先度を決めておく、など、外側から補強するやり方は様々ある。無意識を信頼するのは何より大事だが、意識による支えは、その信頼を高めることにもなる。
人間の身体は驚くほど、複雑で高度な動作が習得出来る。練習とは、身体を支配するための時間ではない。身体が積み重ねた学習を、自分自身が信頼出来るようになる時間である。本番で必要なのは、十分育った無意識の働きを信頼し、意識は音楽の方向を示すことに専念することだ。演奏の成熟とは、身体を疑わなくなること、身体が持つ知恵を意識が導くこととも言える。
意識と無意識は、互いの役割を譲り合い、補い合い、高度な協調の仕組みを備えている。新しい技能は意識によって学ばれ、繰り返しにより無意識へと移される。そして状況の変化に応じて、意識は再び全体を調整する。二つのシステムが絶えず役割を交代しながら協調することが、運動学習の本質だ。ピアノ演奏も例外ではない。
長くなったが、なぜ急に弾けなくなるのか、という問いの参考になれば幸いである。